軋む音を聞くと真っ黒なセックスを思い出した。
ドロドロと溶けあうくらいに熱くて苦しくて、背中を押さえつけられて殆ど強姦のようなものだったけど、強烈に記憶に焼きついて離れないのだから、雲雀は成功したんだろう。
水面がどんどん上へ行って、身体は下へどんどん沈んで行く。あがいて手を伸ばしても水面は遠のくばかりで、でもそれでもいいかもしれないと心のどこかで思っているからどうしようもない。
部屋のドアを開けると、上から下まで全て真っ黒で統一された服装でベッドの上にあがっている雲雀の後ろ姿があった。
少し顔だけ振り返ったが、すぐにまた顔を背けて天井に手を伸ばしていた。何をしているんですか。その光景に思わず持っていた箒を落とした。
「あの、」
「待って。」
「いえ、あの、何、してるんですか?」
「むし。」
無視、の意味かと思えばどうやら違っていた。高い身長の彼が、かわいらしいウサギの柄のシーツの上に立って天井にとまっている蛾を取ろうとしている図は中々どういう表情をしていいのか分からない。
それに何より、彼は何時此処に来たのだろうと言う疑問が当たり前のように、ハルの胸に去来した。
本来ならば泣いて喚いて胸を叩いて、でも嬉しさが勝って泣き笑いで抱きつくようになると思っていたのだが、今のハルは電球交換を父に頼んで見守っているようなシチュエーションで、じっ、と、スーツ姿の雲雀を見ていた。
細長い手が、天井に張り付いた蛾に伸ばされていた。何か、他に方法は無いのでしょうか。
ふわり、と、開いた窓から夜の冷たい風が入ってきた。硝子を変えなければいけないな、と、今は家をあけて旅行に行っている両親に知らせるべきかと悩んでいたら、雲雀がベッドから降りた。軋む音が聞こえた。
「どいて。」
蛾の身体を人差し指と親指で掴んだ雲雀がハルの身体を押しのけて、窓に腕を伸ばして指を離した。蛾は少し落ちるように飛んで行った。
妖精だったら、光る鱗粉を撒き散らしながら月まで飛んで行くのだろうなあ、と、ほんの数秒考えていただけなのに来訪者に顎を掴まれてキスをされた。
蛾を触った指、と思う暇も無く舌が捩じりこんできた。
嘘。このまま、するつもりじゃあないでしょうね。かあ、と、熱が灯った頬に冷たい風が叱咤するように舐めてくる。
部屋の明かりはついていて、窓は割れていて、風が吹き込めば無防備なカーテンははためいて外から丸見えになってしまう。
「や、やだっ」
どんっ、と雲雀の胸を押した。
切れ眼の瞳がすっと細められ、頭を撫でられた。キスをするときに手が寂しいからという動きじゃなくて、子供を慰める時のような撫で方だった。
「駄々をこねるのはやめてほしいな。」
「駄々っ・・・!そ、それよりも雲雀さん!いつ帰ってきたんですか!?」
「まだ日が昇ってた頃から。」
だったら六時間ほど前だろうか。ハルは部屋の電気が照らす中で、雲雀の顔を久しく思いながら見上げた。
インタビューをしたときに撮った、お互いに何も感じていなかった時の写真の横顔を思い出す。あの時よりも大人になった、髪の毛を短くして、若さがだんだんと削げ落ち背は伸びて筋肉がついている。
中学生の時に着ていたスーツ姿よりも更に似合って様になっている。
ハルの家に不法侵入してくる所は相も変わらず、悪びれた様子など何処にもない。むしろ責任転換をしてハルを責める。
「ただいま。」
「おかえり、なさい・・・」
ぐにぐにと鼻と鼻がぶつかりながらの挨拶をしながら、このまま流れにまかせて絡みあおうという気がハルにも伝わってきたので、足で踏ん張り、雲雀の口元に手を当ててぐいぐいと押し返す。
「ずいぶん長く待ってたんですね・・・雲雀さんともあろうお人が」
ハルがそう言えば、雲雀はぴくり、と反応したような動きを見せて顔をゆっくりと離した。ハルも手をどけて、雲雀の顔を見つめている。
「・・・うん。君はよく僕を待たせてくれたよ。」
「はひ。」
「僕ともあろうお人を。」
自嘲気味な声音だ、と、思った瞬間に雲雀が牙をむいた。
言葉通り、口を開いて歯を剥き出し、ハルの肩と首の付け根に歯を立てた。狼が獣を狩るときと同じ、殺気と殺意を一瞬にして爆発させた。数秒遅れて痛みと恐怖が痙攣と冷や汗となって身体に信号を出し続けた。
「あ、いた、い!」
そう言うとすぐに力は抜けたが、雲雀はハルの両肩を逃がさないように、固定するように掴んだ。
掴まれた箇所に意識を向けようとするが、噛まれた部分の痛みと熱が引かずに、ずっとそこでSOS信号を発するようにじんじん、と、心臓の鼓動と同じく血流の流れが波打っているのを感じる。
額に滲んだ汗と、冷やされた心臓と、眼の前にいる雲雀恭弥の存在にどうすればいいのか分からず、氷のように固まっていた。
「痛い・・・」
「何処に行ってたんだい?」
「え・・・」
「何処に行っていた?今まで。」
詰問するように雲雀が訪ねてきた。ハルは少しドキリ、とした。それが表情に出てしまったらしい、雲雀は眉間に皺を作った。
「こんな時間まで、家に一人なのに。」
両親の不在も把握している事に更に驚いた。適当に野放しにしているとばかり思っていたのに。
「泥棒だと思って箒一つで武装した気になって。」
廊下に転がった、今にも折れてしまいそうなくらい風化している竹ぼうきをちらりとハルは見た。
「君は何も分かっていない。」
分かってないのはどっちだ。と、ハルは言いたかった。
貴方こそ分かってない。こんな簡単に会いに来て、会いたくなったら会いに来れる貴方に何が分かると言うのだろう。ハルが会いたいと思った時には貴方は傍に居ないし、泣きたい時には抱きしめてくれない、キスだってしてくれないし慰めてもくれない。
枕を濡らした回数を聞いたらきっと仰天するだろう。全てが雲雀恭弥を想って流した涙はきっと川にだってなる量だ。それほど愛情は大きく深く、寂しかった。
「さっきの蛾なんて、本当だったら殺してもよかったんだ。僕にとって何の意味もなさない虫だったから。」
そうだ、貴方はいつだって人を傷つけてばかりだ。
大好きな武器で人を殴って、綺麗な冷たい瞳で酷い事を言う。イタリアに行くときだって何も言ってくれなかったし、連絡だって、そっちからの押しつけるような一方的な電話や手紙ばかり。それなのに話題はハルから寄こせと言わんばかりの沈黙ばっかりで、ハルは毎回、一言に七言くらい返して、一文に紙全てを使って返したりと頑張ったのに、愛してるとか、そういった言葉をほのめかす事も知れくれなかった。
「更に言えば、蛾なんてどうでもよかった。別に天井に張り付いていようと君の髪についていようと関係なかった。僕についていないのだから。」
じゃあハルもどうでもいいの?
ぎゅう、と下唇を噛みしめてハルは何かを言おうとした。言おうと思った、言わなければいけない。そうじゃないとまたすぐに何処かに言ってハルは枕に川のせせらぎすら作れるほどの涙をしみ込ませなければいけない。
そう思っているのに、どうして噛みしめて我慢して耐えているんだろうか。ハルにすら分からない事だった。
「それに女なんて面倒くさい生き物を、どうしてこんなにかまってあげているか分かる?」
居丈高な言葉を吐き出すその口。言葉は針やナイフだ。
「君はそういう事、一度でも考えた事はある?」
全て返したい。
「君は正しく、僕を理解してくれたことはある?」
全部、ハルが悪いみたいに言う。酷い。
ハルはぼろぼろと涙をこぼして雲雀を睨みあげた。
雲雀の手が脱がそうと動いた。ハルはしゃくりあげるように泣きながらじっとしていた。
外は暗いのに、部屋の中は馬鹿みたいに明るいまま、数年振りに抱き合った。横にベッドがあるにもかかわらず床に押し倒されて背中を痛めた。ついでに言えば、数年振りに喧嘩もした。
酷い位に乱暴に抱かれて喘ぎと悲鳴が混じった声を出すと「うるさい」と言われて口を手でふさがれる。酷い、最低。
ハルが声を出せずにほろほろと泣いていると瞼に唇を押しつけてきた。少し冷たい、肌寒くなってきた今の季節と同じくらい冷たかった。
馬鹿な人だと思った。こんな風に窓を割って入って来なくても、玄関を壊して入ってくれば良かったのに。
ハルが箒をもって退治する相手が雲雀の他にもう一人になる可能性を潰しての事かもしれない。責任感だけは、テリトリーの意味を痛い程絞り出すように見つけるのが得意な雲雀だ。ちゃんと侵入者である蛾を、雲雀は指でつまんで外に放り出していた。
終わった後、浴室の鏡を見て見ると、首を一周するようにキスマークが施されていた。まるで犬の赤いリードのように綺麗な円を描いていた。
首が出る服が着れなくなった事よりも、こうして身体に痕を残してくれるほど近くに居てくれるという実感と、何だかその痕をつけている雲雀の様子を思い浮かべると思わず笑いがこみあげ、声たかだかに笑ってしまった。
鏡を前にして笑っているハルを見た雲雀は、変な生物でも見るような怪訝な眼で見ていたが、その理由になんとなく気がついたらしく、ハルの頭を叩いた。幸せである。
タイトルは椎名林檎の曲です。大好きです