眼を閉じて、精神的にも肉体的にもハルの一番身近にいる人物が、他のフェロモンをまき散らす様な香水をつけた女の人と腕を絡ませて歩いている所を想像してみた。ドレスは赤でロングだったらしい。マーメイドタイプで、髪の毛はブロンド。お似合いだ。と、想像上だけでもはっきりと理解できる。
元より類は友を呼ぶと言う言葉があるのだから、美しい男には美しい女が、金髪の男には金髪の女が似合うものだ。
そして身長も頭一つ分の違いがあったと言っていたから、更にハルの脳裏には美しい二人が颯爽に、長い脚を踏み出してイタリアの街を歩いている姿を想像した。
画家ならば絶対に引きとめて筆をキャンパスに滑らせるだろう光景だ。実際はどうだったのだろうか。
想像の中に更に想像を作り上げた。シャボン玉の中にストローを入れて、息を吹くと小さなシャボン玉が中で浮遊している。そんな感じでもう一つ、三浦ハルを作り上げた。
その小さな三浦ハルは自分の部屋のベッドに腰掛けていて、眉間に皺を寄せて、クッションや枕を抱きながら、立ち上がって部屋をうろうろして、椅子に座ったり床に座ったり、ベッドにダイブしたりしながら考えていた。
だがある瞬間に動きがぴたりと止まって、抱えたままのクッションに顔を埋めている。すぐに顔を上げて立ち上がり、鞄を掴んで部屋を出て、靴を履いて玄関の扉をあける。
ツナさーん!なんていいながら、他の女とデートしている彼の邪魔をしに行くのだ。
ゆっくりと瞼をあけると、薄暗い天井が見えた。ベッドの上で大の字になって眠っているハルは寝がえりを打ち、昨日の夜に椅子に引っ掛けたままのスーツの背広が眼に入って、のそり、と起き上がり、それをハンガーにかけに行った。
カーテンをそっと開けると、眼下には低いビルやホテルが立ち並んでいる。道路には車が行き交い、歩道には颯爽と生きるために歩いている者もいれば、気ままに時間を潰すウィンドウショッピングをしている者もいる。スーツに身を包んだ人間が、嫌に多い。そして眼つきと雰囲気が一般人とは枠を超えている事が、遠目からでも分かった。
しん、とした静寂の中、ハルが歩く音は小さいと言うのに、嫌に響いた。
スーツの衣擦れの音、ハルの足の裏が地面と接触した音、ベッドのシーツが手に触れる音、腰かけた時に軋む音。
ベッドに寝転がり、また眼を閉じて自分に問いかけるように昔の三浦ハルの残像を見る。あの時の三浦ハルだったのならば、今はこんな所に居ないのではないのか?ホテルのドアを蹴るくらいに開けて、はしたなくスカートをたなびかせて、見た目なんて気にせず、髪を振り乱して彼を探しに行くのではないのか?
無知さだった。
今の三浦ハルならば、赤子がナイフを持つ意味も分かるし、お金を稼ぐ大変さも知っている。死んだ蝉に群がる蟻が蝉を食べると言う事がサイクルオブライフだと言う事もちゃんと理解している。あの頃はまるで絵画を眺めるように無邪気に観察していたけれど、アレはマフィアと同じ構造だったのだ。
眼下に見えたスーツ姿の男達は蟻で、死んだ蝉は、弱い、何処かのお金を持った老人やら、敵のマフィア。それに群がり、できるだけの餌を、情報と金を貪りとっていたのだ。
そういう事を理解しているからこそ、ハルは怠惰にベッドから動かず、彼を信じていると言う名目で動かないのだ。
それに、こういう高級なホテルに泊まれる事はそうそうない。まだお酒も飲めない年だと言うのに、世の中の動きはちっぽけな人間が予測不可能に蠢いているのだ。
気がつけば好きになって、そこから波は濁っていた。気がつけば振られていて、そこから波は怪しく波打っていた。
気がつけばキスをされていて、そこから波は引いていた。気がつけばセックスしていた。飲まれていた。
波にもまれて上も下も分からなくなってきた頃、ハルは恋をしていると思った。身体があっちへこっちへ引っ張られて、水面が何処にあるのか分からず、手を伸ばしても何も理解できない中で、救いの手を自分の中で作り上げた。好きになった。恋してる。今の三浦ハルもシャボン玉の中のシャボン玉だという事だった。
眼を開けた。眠っていたらしい、お腹がすいたなと、ぼんやりと上半身を起こしてぼーっとしていると、スーツが引っ掛けられていた椅子に男が座っていた。
想像上の中で簡単に浮かび上がる事の出来た、綺麗な金髪をした・・・
「ディナーに行くか。」
そう言った瞬間にお腹がぐう、と鳴った。覚醒していなかった頭が瞬時に状況を理解して、羞恥心で頬を赤らめた。
顔を俯けながらも頭を縦に振ると、くす、と、笑われた気配がした。
「その前に着替えなくちゃな。ハル。」
確かに、ハルの姿は昨日の夜から変わらずキャミソール一枚だった。ベッドから降りて、裸足でディーノの傍へ向かう。ディーノが備え付けのクローゼットをあけて、顎に指をかけてうーん、と唸っていた。
そんなディーノから視線を横にずらすと、自分の伸びた髪の毛が眼についた。指でつまんでみる。真っ黒だなと思った。
ハルは久しく寂しさというものを感じていなかった。今日も一日中、ディーノが出かけてからというものの、寂しさも切なさも無かった。ただ、ノスタルジアのような、故郷を懐かしむ気持ちに似た時間の残酷さは感じた。
ディーノが決めた服に身を包み、ホテルを出た。肩を抱いてくるディーノに身体を預けると、想像していた匂いとは違う香水の匂いがした。
エレベーターに乗り込みボタンを押した。
「今日は何を食べようか?」
「とにかく、ハルにお酒を飲ませようとするのはやめてください。」
「了解。」
眼を細めてハルの頬に指を擦りつけるようにして触る。ざわざわと、風が吹き荒れる。
「それでハル、家に帰るのはいつだったっけ?」
「えっと、三日後くらいですね。」
「休みなんだろ?もうちょっと居てくれよ。」
「はあ・・・」
「折角日本にいるってのに、ハルと一緒に居ないんじゃ意味ねえよ。」
仕事が疲れた。と、彼は言葉を小さく漏らした。
「ハルは何だか夢を見ているようです。」
「夢?それってエッチな?」
「違います。・・・何だか、こんな子供の頃から高級なホテルや食べ物や景色を見れている事が」
「俺が夢を与えてるって事かな」
光栄なことだ。と、耳元で囁かれて吸いつかれた。「俺は今から夢魔をお前に見させてやる」とでもいうように、先ほど選んだドレスを脱がした。
「さっき食べたばっかりなので、お腹が膨れていると思うのですが・・・」
「それが?」
彼は鈍感じゃない、わざと、ハルに言わせようとしているのだ。
「・・・あんまり見ないでください・・・って、事、です・・・」
「了解。」
楽しそうに顔を上げて、口端を吊り上げる表情はまるで王子様みたいに綺麗で美しい。
指が身体を這う、指先が肌をなぞる。吐息が胸元にかかると、ああ、やっぱりハルは子供じゃないんだと感じた。
暗闇で蠢く金髪の頭に手を添える。猫のように見える。だが、その猫は撫でても気持ちよさそうに喉を鳴らして眠ってはくれなくて、犬のように嬉しそうに息を乱して舌を出す。そして興奮して尻尾を振りながら発情する。
「ツナさんは、」
今日の仕返しとばかりに、他の男の名前を言ってみた。
ハルは脱がされたドレスがまたあの椅子にかけられているのを見ながら、昔好きだった男の話題を、ディーノの弟分の話題を持ち出した。
「ハルを振った事、後悔してくれているでしょうか。」
だって、ねえ。ディーノさんは、ハルとキスするのが好きだって言ってたし、ハルの作るクッキーもおいしいっていってくれました。その尽くす姿勢も天真爛漫な性格も、恋人やお嫁さんにするのには最高だって言ってくれたじゃないですか。だったらツナさんもそう思ってくれるはずなのに、どうしてツナさんは、そういうハルを知ってはくれなかったのでしょう。
続けて言葉を言いたかったが、口をつぐんだ。言ってしまったら堰を切ったように、胃液まで吐き出す勢いで吐露してしまいそうだったからだ。
ディーノは動きを止めて顔を上げた。
「してるんじゃないか?」
「・・・どうして?」
「良心が無いと後悔なんてしないだろ?だからツナは後悔してるに決まってる。」
「そうでしょうか?」
「ハルは良心もないようなアウトローを好きになるような女なのか?」
ディーノはハルの髪を一房持ち、そこにキスをした。イタリア男が、まだお酒も飲めないような、大人と子供の境目に居る少女を誑かす。
「だったら、ハルも後悔しています。」
「そうか、何に?」
そんなの、分かっている癖に。
「貴方のシャボン玉になった事ですよ。」
「しゃぼんだま?」
「はい、シャボン玉・・・」
そんな風に態々風を吹き荒らすようならば、ハルはいつかあっけなく割れてしまうだろう。
他人の口から漏れた吐息で割れるくらいに揺らぐ丸い輪郭ならば、いっそのことディーノのたった一言の残酷な言葉で割れたいと思った。
だが、それを自ら所望することは無いだろう。いつかディーノ自身が折り合いをつけて腹をくくった時に言ってくれるのをただ待とう。
「Ti amo.」
熱い吐息のような声が耳元を擽った。肌が泡立ち、輪郭が酷く歪んで割れそうになるほどに不安定に曲がった。もう握りつぶしてくれればいいのに。
甘いものを書こうと思っていたのに、どうしてこうなった。
title 星が水没