血まみれで帰ってくる男を抱きしめられるほど、ハルは強くは無い。
慣れて強くなりたいとも思わない。
できれば片手に花束でも持って、血色のいい顔でサプライズプレゼントなんてものを用意できるような、気のきいた、ちゃめっけのある男に抱きしめられたい。
毎週決まった時間に帰ってくる男は、泥がついて居る時もあれば、頭から血を流している時もあり、身体中を怪我して、腕を押さえながら帰ってくることもしばしば。
時折玄関までたどり着けず、途中の道端に倒れている外国人の男がいると、警察に通報される事もしばしば。
何度もそんな光景を目にするご近所の方々は、携帯に110を押す前に、隣の家のインターホンを押してハルに知らせてくれるようになった。
今日もまた、花束は何処にもなく、左手につけられた誰の血か分からない赤い水滴が剣先から滴り落ち、道路に点々と落ちていた。
背負う事もままならないので、ハルは休日にホームセンターで買った機材と釘を使って、人一人運べる引き車を作り、それを引っ張ってスクアーロが倒れている場所まで行き、それに乗せて帰る事にした。
夜中、がらがらと音がすると「またあそこの旦那さん生き倒れてるのね」などと、食器を洗いながら思われるのだった。
ハルが医者を呼ぶか、病院に行くかの二択を選べとスクアーロに言うのだが、スクアーロは折角此処まで帰って来たというのに、どうしてまた出て行かなければならないのか。というように、眉間に皺を寄せてハルを黙って睨みつけていた。
だが、その選択はスクアーロが自分の体調を感じとっての事ではなく、残った時間を見て判断した事だった。
明日も仕事がある、その間に家に居たいと思っているのは分かるのだが、ハルは嫌な予感が去来するのを感じた。
「俺は運が良かっただけだぁ。今回も、あの時も。全て運がいい方へ作用しただけなんだぁ。」
額をハルの鎖骨に押し付け、固い骨が薄い肌を隔ててひっつく。骨と骨がごりごりと押しつけられ痛かった。
それなのに上に乗って長い髪をハルの身体に纏わりつく異常に、背中にまわされた手は優しく、包み込んでいた。
左手も義手だというのに、それを忘れるほど優しく、シャボン玉すら壊さないような柔軟な手つきで背中を這った。
「足元に、気をつけてくださいよ。」
「右に行くか左に行くか、上に行くか下に行くか。俺の判断じゃねえ、運が俺を殺すか殺さないか決めてるだけなんだぁ。」
顔を伏せているからか、髪の毛が言葉を逃がさないようにシャットアウトしようとしているのかは分からないが、スクアーロの声はくぐもっていた。
まるで懺悔をするように、ハルに顔を擦り寄せて、独り言を言う様に声を漏らした。
「まあ、だからなぁ。俺が死んだら、そんときは運が味方してくれなかったって事だなぁ・・・」
「・・・・」
スクアーロは、家に帰り、食欲を満たし、性欲を満たし、睡眠欲に髪の毛を引っ張られる瞬間。寝る前に駄々をこねる子供のように習慣的に、貪欲な鮫のイメージを軽く脱ぎ棄てる。
言葉通り服を脱いでいるからなのか、原因は良く分からないが、ハルはスクアーロの身体からゆっくりと、力が抜けて行くのが分かった。
身体で感じる睡眠にずぶずぶと意識が沈んでいく人の身体が、ずっしりと体積は変わらないのに重くなっていく感覚で、スクアーロがまだまどろんでいるのか、すっかり眠ってしまったのかの違いが分かるようになった。
そしてゆっくりと、スクアーロを横にずらして、上から退いてもらう。
「・・・おやすみなさい。」
スクアーロに向けて言ったのだが、最近は自己満足の儀式のように、誰に向けて言うでもなく呟いて眠る。
そして眠る前、ほんの数秒間だけ、瞼の裏にちかちかと点滅する光の残像を神様に見立てて、彼に味方してくれるよう祈った。
それでも太陽は必ず東から昇ってくるし、西に太陽は静かに、ひっそりと沈んで行く。
神様に太陽が昇ってくるのではなく、落下してくるようにしてくださいと願っても、運は味方してくれず、毎日の繰り返しに太陽は山から顔を覗かせ、恥ずかしさのあまり山の奥へ急いで落下する。
道路に行き倒れる銀髪は、背筋を伸ばして傷一つなく家へたどり着くことは無いし。
仕事をしない上司の代わりに押しつけられる重圧と書類の重みは軽くなることは無い。
でも、血まみれなのは服だけで、身体には傷一つついていない日があった。
「今日はボスの機嫌がよかったからなぁ。」
そう語るスクアーロも機嫌よく、タオルで髪の毛を拭いていた。
珈琲を入れると身体が温まるぜぇ。と言いながらソファーに腰をおろして飲んでいる。
そういう、日常のなんてことないだろう光景が、ハルにとってはとっても幸せで高確率に起きる奇跡なのだ。
玄関で服を脱ぐことも、風呂場で背中についている傷口を丁寧に洗い流すことも無く、普通に机に両肘をついて頬杖をつきながら、血色のいいスクアーロの横顔を見る事が出来る。
「神様ありがとうございます。」
おやすみの代わりにそう言ったら、次の日は太陽は見えず、土砂降りの雨になっていた。
カーテンを開けて空を見上げると、窓に張り付いて落ちていく雨粒が波のようになり、外の景色の輪郭が大きく歪んでいた。こんな日も、彼は仕事へと出かけていく。
玄関でブーツを履いているスクアーロの背中を見て、ハルは気が気ではなかった。
彼は、この雨の中一人で行くと言うのだ。
傘をさして歩いて居れば、もしかしたら雷が落ちてくるかもしれない。足を滑らせて頭から転んでしまうかもしれない。水たまりに片足を突っ込んで、慌てて退いて溝に足を落として骨折するかもしれない。
ハルがスクアーロに気をつけるように、その可能性を全て吐き出せば、スクアーロは眉間に皺を寄せて、いつもより不機嫌に出て言った。
ああ、神様、彼にどうかご加護を・・・
運はスクアーロの追い風となって傘を飛ばす勢いで吹き荒れた。台風が近づいて居た。
だが、スクアーロはヴァリアーに向かい、仕事を終え、日常茶飯事となったボスのストレスを解消させて帰路についた。
外には人はおらず、叩きつける雨の中、スクアーロは新しい傘をさしてあるいていたのだが、骨が全て折れてしまい頭の先からブーツの中まで水浸しで帰ってきた。
ぽたぽたと、タイルの上に落ちる水滴と、少し疲弊しているスクアーロの顔を見てハルは心臓がきゅっと締めつけられた。
ハルが風邪をひいてしまうと、タオルを持ってスクアーロの頭にかぶせて拭いていると、丁度段差のお陰で身長が同じくらいになり、顔も近かったのでスクアーロが唇を押しつけた。
雨のせいなのか、冷えた唇が、火傷するくらいの熱さのシチューを味見したハルの唇に触れた。
「・・・ラブラブですね」
「自分で言うのかぁ。」
近くでスクアーロの顔を見つめていると、やはり人相は悪い。目つきが悪い。そして運を他人から奪ってでも味方につけるその気丈さはあるのに、どうしてこんなにも幸薄いのか。
「ハルはとっても心配です。スクアーロさんがいつしか猫さんの尻尾を踏んで顔にひっかき傷を作ってしまいそうで・・・」
「別に心配するほどの事件じゃねえだろうがぁ」
「そうじゃないです。あのスペルビ・スクアーロがそんな事を起こしそうなくらい、危ないと言う事です」
「ああ゛、まあ、なぁ・・・」
出会った当初なら「ん゛なわけねえだろうがぁぁ!」などと、叫びそうなものだが。
歳のせいかもしれないと思ったが、ハルに対して慣れというか、そこまで感情を変動させる必要が無くなったのかもしれない。
ベッドに横たわったスクアーロの身体には傷跡が残っている。指先で撫でると、僅かに膨らんでいるのが分かる。
ハルは起き上がり、スクアーロの左胸の下のあたりに耳を押しつける。ちゃんと心臓が動いている音が聞こえる。
「ハルは最近、スクアーロさんが出かける時に、怪我しないか心配になっているんです。」
「ん゛。」
少し眠たそうな返事が返ってきたが、ハルは心音を聞きながら眼を閉じた。
「なんだか、年頃の男の子が、友達と山に遊びに行くのを見送るのと似ているんです。」
「あ゛ぁ・・・」
「ハルは心配ですよ。スクアーロさんはサイボーグじゃないんですし、そろそろ休みと、運をもっと呼び寄せてガードを固めないと・・・」
特に最近は酷い。弱音も吐くし、ハルを抱きしめたまま動かない事も多い。
それこそ、母親に抱きついている子供のような感覚で、ハルは頭を撫でたり背中を撫でたりしている。
嬉しくないわけじゃないが、日に日に精神的に弱って行くスクアーロを見るのは痛い。
冷たい水で皿を洗っているハルの手は潤いを無くしていた。ハンドクリームを塗っても、あまり効果は無い。夏のあの蒸し暑い湿気が籠った季節に、スクアーロは良く手を握ってきた。
今は指の腹の皮がめくれて肌を引っ掻く。ハルは恥ずかしいと思っているのだが、スクアーロはそのささくれを指先で引っ掛けるように触ってくる。
その指で、スクアーロの頬をつつくと、スクアーロは手首を掴んで、眠そうな目を薄らとあけながらハルを見た。
「いい夢を。」
「・・・見れるといいなぁ。」
「見てください。絶対です。」
「Sì, capo.」
手からするりと力が抜けた。まるで死んだように眠りに落ちたスクアーロの額をゆっくりと撫でる。
「神様仏様ザンザス様、どうか彼に一日だけでも休日を・・・」
ざあざあと雨が嘶く。
かみなりの気配は、今のところ無い。
馬車馬の如く働かされるスクアーロを案ずるハル。
ボスは絶対休みなんてあげません。
お題はアリプロから。生贄ってぴったりじゃないか!という事で。